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伝統工芸品マーク

産地ならではの技法を今も守り続ける伝統の技

産地ならではの技法を今も守り続ける伝統の技

経済産業大臣指定 伝統的工芸品 十日町明石ちぢみ
経済産業大臣指定 伝統的工芸品 十日町明石ちぢみ
経済産業大臣指定 伝統的工芸品 十日町明石ちぢみ

繊細で緻密な技術により生まれる幻の「蝉の翅」とも呼ばれる着心地

繊細で緻密な技術により生まれる幻の「 蝉の翅 せみのはね 」とも呼ばれる着心地

十日町明石ちぢみの特色
十日町明石ちぢみの特色

「十日町明石ちぢみ」の特色は、強撚糸の緯糸にあります。八丁撚糸機により、27デニール(大正時代の「十日町明石ちぢみ」は14デニールを使用していました)の糸に1mあたり約4,000回の撚りをかけています。

「強撚糸だから、かすかな不純物が混ざっているだけで、まっすぐな時にはわからないような汚れや不純物が短くなり、濃くなってしまいます。ですから、繭の最初や最後の方の糸は使わず、真ん中の、不純物の少ない最高級の糸を原料にしないと明石ちぢみは作れません。」

そして、糸染め・絣・巻き・織りなどそれぞれの工程においても薄物ゆえに、通常の織物以上の技術や集中力・責任感が要求されています。

このように最高級の糸に高度な撚糸技術を加え、職人のプライドをかけた繊細で緻密な幾つもの工程を経ることによって「蝉の翅」とも呼ばれ、十日町小唄に「着たら放せぬ味の良さ」と唄われる、「十日町明石ちぢみ」ならではの清涼感あふれる着心地が生まれるのです。

この「十日町明石ちぢみ」は、戦争中の統制経済を経て、戦後十日町においても生産数がほとんどない時期がありましたが、平成10年に吉澤織物が限定復刻し、大正・昭和の女性をおおいに魅了した高級夏着尺を現代のきものファンに紹介致しました。

復刻生産された「十日町明石ちぢみ」は、平成の女性たちにも支持され、「きもの絵巻館」では、縮布の前掛地を生産していた三代目吉澤与市以来の100年以上の伝統の技を駆使した「明石ちぢみ」・「明石上布」・「筬波明石」・「透綾明石」の4タイプを販売しています。

十日町明石ちぢみ製作工程

十日町明石ちぢみ製作工程

1.設計

1.設計

十日町明石ちぢみの構図・配色を考えます

十日町明石ちぢみの構図・配色を考えます。

2.染色

2.染色

緯糸は涼感を出すため精錬を行わず、生糸の状態で染色・糊付けをします

緯糸は涼感を出すため精錬を行わず、生糸の状態で染色・糊付けをします。

3.手延べ

3.手延べ

設計図に基づき、長さを揃え、柄ごとに必要な本数を束にまとめます。

設計図に基づき、長さを揃え、柄ごとに必要な本数を束にまとめます。

4.絣巻

4.絣巻

設計図の絣柄の位置が合うように経糸を固定し、木枠に巻きつけます

設計図の絣柄の位置が合うように経糸を固定し、木枠に巻きつけます。

5.製織

5.製織

織キズなどがでないよう、注意深く織り上げていきます

織キズなどがでないよう、注意深く織り上げていきます。

八丁撚糸

八丁撚糸

下撚りの終わったものを同じ方向に1mあたり
約3,950回の撚りをかけます。
この作業工程は、必ず「八丁撚糸機」を使用することが定められており、糸切れを防ぎ、撚りを戻さないために、常に水を噴霧状にかけながら行います。

八丁撚糸

優れた技術を持つ十日町に託され研究を重ね完成した高級夏着尺

優れた技術を持つ十日町に託され研究を重ね完成した高級夏着尺

 
明石ちぢみの歴史
明石ちぢみの歴史

「明石ちぢみ」は今から400年ほど前、播州明石の船大工の娘・お菊によって「かんなくず」をヒントに考案されたといわれています。また、『本朝俗諺誌』に「明石縮は 豊後国 ママ 小倉の名産なり」という記述が見られるように、明石藩主の小笠原氏が豊前小倉に国替えとなり、小倉でも生産されていました。

享保年間に刊行された『万金産業袋』に「たて絹糸、横もめんいとにて、 尤も もっとも よくうつくしく縮たる物也。」とあり、もともとは、 経緯 たてよこ とも木綿でありましたが、 と絹の交織が生まれ(苧縮)、やがて経緯 とも絹糸になり、「明石本縮」と呼ばれた歴史もあります。

そして、明治20年頃、新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が、西陣の織物業者が「明石ちぢみ」を研究しているのを見て、西陣より湿度が高く、越後縮以来の強撚糸の優れた技術を持つ十日町が織るのに適していると考え、十日町の機業家「米忠」の佐藤善次郎に裂見本を見せて研究を進めたのが、「十日町明石ちぢみ」の始まりです。

撚糸の担当は金子幸吉、意匠は「絣の名人」直井喜代八、整理仕上げの担当は浜間庄蔵。いずれも当時の最も優れた技術者が「明石ちぢみ」の開発に挑むことになりました。

試行錯誤を繰り返し、更には「澤喜」の田口米蔵との共同研究を進めていきますが、最大の難関は「撚糸」と「整理・仕上げ」であり、幾度もの失敗や血のにじむような苦心を重ねながら、明治27年頃に製品を市場に送り出します。

竹久夢二ポスター経糸に練糸、 緯糸 よこいと に生糸を使った両シボ明石は「 透綾 すきや 」に似ており、「 縮緬 ちりめん 」に近い地風なので、当初は「透綾縮緬」と呼ばれていましたが、原産地の地名をとって「明石ちぢみ」と命名され、「十日町明石ちぢみ」が誕生しました。難産の末に誕生した「十日町明石ちぢみ」ではありますが、割高感が強い上に商品そのものが未完成であったため、当初の需要は必ずしも多くありませんでした。しかし、蒸熱加工により「濡れると縮む」という欠点を克服、「玉の汗にも縮まぬ明石」の名のもとに面目を一新し、その後、防水加工の発明によって高級夏着尺の地位を確立していきます。

このような産地の改良・努力とともに、大正年間には生産点数は3万反から15万反へと5倍になり、昭和4年に発表された「十日町小唄 (作詞:永井 白湄 作曲:中山 晋平)」がコマーシャルソングとなって、「十日町明石ちぢみ」を全国に広めていき、昭和7年の生産点数は27万反と産地全体の70%を占めるようになりました。

昭和10年10月には「明石ちぢみ創作50年祭」が3日間にわたって産地を挙げて盛大に行われ、発展功労者の一人に、吉澤織物で「十日町明石ちぢみ」の製織を始めた五代目吉澤与市(貞治)も選ばれています。

昭和9年 東京上野松坂屋での宣伝会にて明石ちぢみを着て勢揃いする地元芸妓。( 十日町市博物館所蔵)

昭和9年 東京上野松坂屋での宣伝会にて明石ちぢみを着て勢揃いする地元芸妓。( 十日町市博物館所蔵)

麻から絹へ 名産は今もここにある

麻から絹へ名産は今も「きも の絵 ここ 巻館」にある

「越後縮」と「十日町明石ちぢみ」
「越後縮」と「十日町明石ちぢみ」

ちぢみ は越後の名産にして あまね く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれど、さにあらず、 わが すむ 魚沼郡 うおぬまこほり 一郡にかぎる産物也。」と天保年間に刊行された鈴木牧之の『北越雪譜』に記されているように、越後縮は、現在の十日町市・小千谷市・魚沼市・南魚沼市で さん されていました。

地域ごとで作るものにきまりがあったようで「 浅黄繊 あさぎしま のるゐは十日町組の村々」・「 くれない 桔梗 ききょう しま のるゐは小千谷組の村々」との記述が見られますが、いずこも「豪雪地帯」であり、牧之は、糸を作るのは「雪中に 籠り こもり る天然の 湿気 しめりけ を得ざれば為し難し。」と述べ、「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に そそ ぎ、雪上に さら す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし。」という有名な一文を遺しています。

また「 ちぢみ 」という名前の由来は、単に「布」と言われていた「越後布」が次第に工夫されて糸に強い撚りをかけ、しじませて織ったので「しじみ布」と言ったのが省略されて「ちぢみ」となったのではないか、と推測しています。 「越後縮」の市は毎年4月に十日町・小千谷・塩沢・堀之内で開かれ、女性たちは自分の技術に対する高い評価を求め、「利」より「名」を争った、とも言われています。

平成26年には、現在の十日町市細尾集落で織り上げられたと推測される「越後縮」を、十日町の縮問屋「松村屋 根津五郎右衛門家」が徳川13代将軍家定の正室・天璋院篤姫や14代将軍家茂正室・皇女和宮らに納めた、という史料(「納品請求書「覚」の控えと裂見本「御召縮御 雛形 ひなかた の包み紙」が見つかりました。 「覚」の控えからは、「天璋院様御召」・「一嶋越後縮 一反」などの文言を読み取ることができ、天璋院篤姫には現在の価値で20~30万円の「越後縮」を納品したようです。 また、包み紙には家茂を表す「御本丸」の文言があり、将軍御自身も「越後縮」をお召になっていた可能性があります。

「越後縮」の技術の受け継いだ「十日町明石ちぢみ」は、「越後の名産」として「きもの絵巻館」に常時展示されています。

「越後縮」を徳川将軍家に納めたことを示す史料

「越後縮」を徳川将軍家に納めたことを示す史料